最近自らのアイソレーテッドな人生を描き直し美しいものとし
て再評価・自己定着させているように思う。
自分自身による自虐史観の形成と言い換えてもいい。
つまりそれが自分にとって最も受け入れやすい、生きるための「哲学」となり得ると
感じているようにも思う。
「生きることの意味」は本質的には存在しないのではないか。生物学的にも形而上学的にも。
すべて個々の幻想の中に築き上げられた、あるいは自分を取りまく共同体によって
かつて生きられた記録をトレースするだけではないか。
それが「常識」という固定観念として共有されてきたことにより
「円滑な」社会が築かれるという、これまた「幻想」に立脚しているのだろう。
ひとつの社会共同体が存続するために設けられたルール、
もちろん所与のものとしてではなく、何度かの試行錯誤の結果ほとんどのものは排除され
最も中庸なものが選択され生き延びてきた、と考えられないか。
多くの人が指向し、最も多くが安住することができると信じている
その中庸な社会共同体のルールが「常識」という名の教義として選択されたのだろう。
そのドグマからはずれた場所で生きようとする人間は
一般的には排除されるか「矯正」されるか、という処分を
その社会の他の成員から受けることが多いのではなかろうか。
その「村八分」の恐怖感から、社会を成立させているコードを
それぞれの構成員が必死に解釈し、そこに敷かれた見えないレールに乗り続けることが
「生きる意味」として錯覚され、共有されることで、幻想の上に成り立つ
いわゆる社会共同体が存続し得ると。
そのように考えると、逆説的に、社会共有幻想から
はずれる身ぶりを安息を得るためのパターンとして自らに教練するという
「自虐性」を幻想の基盤とする生き方というものが優先的に選択される
可能性が芽生えるのではないだろうか。
最近のコメント