休日はたいてい独りで過ごす。
友人に会うとしても半年か年に1度程度。それも自分からリレーションを求めることはほとんどない。
強制的な人間関係は会社の野球部の活動か、やはり会社から派生したサークル的な活動で、平均すれば合わせても月1回程度だ。
こういうのを一般的に「引きこもり」と呼び慣わすのだろうか。それともそこまで言うと本当の引きこもりの方に悪いから、対人関係障害(コミュニカティブディスオーダー)とでも呼ぶか。
自分の場合ガキの頃から学校など集団生活にまったく溶け込めず、自分の意には反していたが、常に孤立していたし、40を過ぎた今に至るも自分が所属する組織と自分個人との関係が平行線で交わることがない状況にはさほど変化はないように思う。
ただガキの頃と少し変わった点があるとすれば、大学生になり酒を飲むようになってから、酔うことで意識のこわばりを解放することができることを知り、その後の対人関係はすべて酒を媒介とするものになったことだ。
しかし逆に、酒が対人関係を築き、維持するための唯一のソリューションとなってしまったという弊害をももたらしたように思う。
それが証拠に、異性関係に関しては酒の力では乗り越えることが出来ないでいる。常に表面的、短期的に留まり、継続的なリレーションを保てない。
今の年齢からしても生涯未婚の可能性は100%に近いものを感じる。
自分がこれまでの人生の大半を生きてきた昭和的価値観からすれば、この歳になっても結婚しない、できないというのは「社会不適応者」と見なされてきたし、今も巷間に流布する価値観の底流は変化していないと感じる。
さて、自分を「社会不適応者」だと認定するにして、いかなる問題が存在するだろうか。
対外的な問題は自分個人の考え方次第なので実はさほど考慮しなくてもよいのかもしれない。
ただ、孤独も40年近く付き合ってると、飼い慣らすなり、少なくとも折り合いがついてきてもよさそうだが、それがなかなか難しいと感じるのは、動物としての本能がはやはり他者とのリレーションを奥底で欲望しているからなのか。
だが仮にそうだとしても、例えば結婚して家族を構築する、などの表層的な関係性の現前が本能を満足させる特効薬とはなり得ないのではないか、というのもまた直感的に思うところではある。
そう言えば、以前は他者とのコミュニケーションの媒介手段あるいは増幅装置としてその効用を得てきた酒だが、今はいかようにしても逃れることのできない孤独感の鎮痛剤として飲んでいるように思わないでもない。
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